日本画家 東山 魁夷

日本画家、東山魁夷が信州を初めて訪れたのは大正15(1926)年のこと。そこで山国の自然の厳しさに強い感動を受け、そこに暮らす人の素朴な温かさに触れたといいます。それ以来、信州に限らず山国に出かけるようになったそうですが、なかでも信州は「作品を育ててくれた故郷」と自身が語るように、東山魁夷にとって特別な場所だったそう。今は長野市にある善光寺大本願花岡平霊園に眠っています。白樺湖周辺も、東山魁夷が愛した信州の風景のひとつでした。

緑滴る八島ヶ湿原

『夕明り』は、八島湿原を描いたもので、個人の所蔵ですが習作は長野県信濃美術館・東山魁夷館に収蔵されています。水を含んだ湿原の、その湿度を感じさせるような緑滴る雰囲気に息をのみます。そしてたたずむ一頭の白馬。幽玄な自然美を感ぜずにいられません。東山魁夷は『画集 白い馬の見える風景』(1973)で、『夕明り』に次のような言葉を添えています。

祈りの時が来た
静かに鳴らせ つりがね草

八島湿原は、八ヶ岳中信高原国定公園の霧ヶ峰に位置し、国の天然記念物に指定されている高層湿原です。標高1,630m、面積は約45万㎡あり、約1万年ものと時をかけてミズゴケなどが堆積し、現在のような湿原になったといわれています。5月から9月まではさまざまな高山植物が咲き誇ります。木道が整備されているので、自然を傷つけないように散策できます。

『夕明り』(1972、習作) 収蔵:長野県信濃美術館・東山魁夷館

写真提供:信州・長野県観光協会

『緑響く』は、テレビCMにも登場して話題となった、東山魁夷の代表作のひとつ。白樺湖と同様、農業用のため池としてつくられた「御射鹿池(みしゃかいけ)」がモチーフです。八ヶ岳中心高原国定公園のなかにあり、2010年には農林水産省により、ため池百選に選定されました。その幻想的な美しさから多くのカメラマンが撮影に訪れ賑わうときもありますが、人がいないときの湖面に映り込む自然の美しさは絵画に写し込まれたそのもの。木陰から白馬が出てきても不思議ではないような、そんな思いに駆られます。酸性が強く、生き物が棲息することができません。絵画のなかの凛とした空気感が、まるでその事実を伝えるようです。酸性を好むチャツボミゴケが湖底に繁茂しているために、青緑に光る湖面に木々が美しく映るのだそうです。
『東山魁夷館所蔵作品集』(1991)で、東山魁夷は次にように記しています。

『緑響く』(1982) 収蔵:長野県信濃美術館・東山魁夷館

一頭の白い馬が緑の樹々に覆われた山裾の池畔に現れ、画面を右から左へと歩いて消え去った―― そんな空想が私の心のなかに浮かびました。私はその時、なんとなくモーツアルトのピアノ協奏曲の第二楽章の旋律が響いているのを感じました。おだやかで、ひかえ目がちな主題がまず、ピアノの独奏で奏でられ、深い底から立ち昇る嘆きとも祈りとも感じられるオーケストラの調べが慰めるかのようにそれに答えます。
白い馬はピアノの旋律で、木々の繁る背景はオーケストラです。

写真提供:信州・長野県観光協会

東山魁夷 Higashiyama Kaii(1908-1999)

神奈川県横浜市生まれ、東京美術学校日本画科を卒業。ドイツへ留学。1956年日本芸術院賞受章。1969年文化勲章受章。皇居新宮殿壁画、唐招提寺御影堂障壁画等を制作。従三位勲一等瑞宝章受章。長野市善光寺大本願花岡平霊園に葬られる。